大正14年6月22日、行田でベンガラ製造業(現在の利根産業梶jを営む永沼倉次郎の次男として誕生。幼少の頃は、機転の利く子供で、両親からたいそう愛されて育つ。 小学生の頃、結核性関節炎に罹り、片足に障害を抱え、なにくそ!という気持ちを育てながら成長し、旧制不動岡中学校に進学する。
復員直後、故郷では、家業を手伝う傍ら青年団の団長となり、地域のために奉仕活動を行う。こうしたなか、祖国の復興のため、政治に目覚め、さまざまな選挙活動に携わり、池田勇人大蔵大臣(後の総理大臣)の秘書となる。主に池田邸における庶務の処理、また、全国各地の選挙の梃入れ、さらに、池田氏地元(広島県)における選挙区の活動など7年半に渡りこの秘書活動に身命を捧げる。
昭和37年12月、羽生市に居を構え、昭和38年4月、初めて県議会議員選挙に立候補するも落選。昭和46年、県議会議員に初当選。昭和50年には、再度落選。昭和54年に再当選のち、昭和58年、昭和62年、平成3年と
4期連続当選するものの平成7年に落選。
県議会議員として、さいたま水族館、羽生水郷公園の設置、むじなもの保存等に全力を傾注し、その実現に尽力した。また、八雲社の女神輿の復興を成した。議会では、決算特別委員長を始め要職を歴任し、畑知事、土屋知事の信頼を得、埼玉県、そして羽生市のため大いにその力を振るった。
長年、子供会の育成に努めた功により、皇居における表彰を控え、背広も新調し楽しみにしていたところ、平成16年10月15日、自宅の階段を踏み外し、顔面を骨折。救急車により羽生病院に搬送され療養する。外傷は完治するものの、肺炎を発症し、平成17年1月10日未明逝去、享年79歳。
時は戦時下であり、中学卒業後、美術学校に進学を志すが、昭和19年、中支派遣軍の二等兵として戦地へ。重慶を目指す最前線のなか終戦となり、虜囚生活を送った後、復員。故郷への帰途に荒れ果てた祖国の惨状を見て、衝撃を覚える。
しかし、なにくそ!の気持ちで、
平成11年、9度目の出馬を決意、最年長での当選を果たした。通算6期24年、埼玉県議会議員を務め、平成15年埼玉県議会議員表彰される。埼玉県議選における6勝3敗の成績は、まさに全生涯を賭けた戦いの連続であり、政治一筋に捧げた人生の記録と言える。